一日一つ、変わってく

上京して働く業務システム開発エンジニアのブログ

家族円満生活を続けたければ、食事中にテレビを点けるのをやめよう。会話がどんどん下手になる。

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はじめにー食事中のテレビによって家族の円満度が下げられている仮説

あなたにとって、大切な時間はなんだろうか。

ゲーム、アニメ、スポーツ観戦、読書、色々あるだろう。仕事!という、エネルギッシュな人もいるかもしれない。

ただ、万人にとって大切なことがあると思う。

それは、「会話」である。

我々は、皆、気の合う友人と会って話すのが大好きな生き物だ。

毎週金曜日の夜はビジネスパーソンは居酒屋に集まる。休日に女性たちはカフェに集まる。その場所が目的ではなく、気の合う友人と話をするために、お金を払っている。それほど、我々は会話が好きな生き物だ。

ただ、それが、最も長い時間を一緒にする人達ーすなわち「家族」と、そういった会話ができているだろうか。

多くの家庭が、食事中はテレビを点け、それを中心として場を持たせていくと思う。

ただ、振り返ってみると、我々は仲がよい人達と会って話すときなどは、テレビなど必要としない。純粋に、相手の興味、自分の興味を話して楽しんでいるだろう。もしテレビなどがあれば、邪魔だと考えるに違いない。

ではなぜ、食事中にテレビを点けるのか。それは、目の前の人間関係構築をさぼりたいからだろう。相手と向き合うのは大変なので、其の場をテレビを使ってやり過ごしているのだと思う。

テレビによって、会話しなくても一時的にその場は持ってしまう。しかし、それにより、どんどん家族の円満度は下がり、日々のストレスは増していく...。それは、ひいては大きなすれ違いに発展するかもしれない...。

私は、家庭において、食事中はテレビを見る習慣は止めて、目の前を人間を大切に、会話をしていくべきだと考えている。

その結論にいたった理由を述べていきたい。

家族だからこそ、良好な人間関係を築くための努力が必要

あなたが一緒にいたいと思える人を思い浮かべてほしい。どうしてあなたはその人が好きなのだろうか。その大きな理由は「話していて楽しいこと」だろう。年に必ず数回は会うその人は、あなた心の解きほぐし、言いたいことを言わせてくれる、素敵な方だろう。

その点、家族は「話していて楽しい人」とは限らない。家族は楽しいかどうかで選べるわけではない。

最初は楽しくて結婚した夫婦だったとしても、それはその時は恋愛感情が勝っていたからで、真の意味で相互理解はそもそもできていなかったということもある。一緒の家で暮らして上手くいくということと、恋愛的に魅力であることは全くの別の要素が必要だったというやつだ。

子どもと親の関係性も簡単ではない。子供と親は「家族」という関係性において繋がっているのであり、友人のように「意識せずとも仲良くいった」から始まるものではない。もちろん、血がつながっているから色々感性や気が合う、というような単純な関係ではない。

ビジネスや仲間づきあいは、ある程度自分の好みでコントロール出来るのに対し、家族との関係は、「家族」という関係性によって固定されている。だからこそ、イージーモードで相性の良い家族もいれば、「なんや、こいつ、まじで、話が分からん、ヤツやな」といような、気づいたらハードモード固定ということもあるのである。

人間はそもそも当たり前のことに感謝し配慮しづらいということもあるだろう。水が豊富な日本では、水不足に苦しむアフリカのように、水に感謝することができない。
家族も、その存在が当たり前過ぎる一面がある。その関係性に甘えてしまい、互いに相手を思いやる配慮が欠けがちになるのではないかと思う。
例えば、親が子どもの気持ちも聞かずに「○○しなさい」と命令したとする。これは、親子関係にあぐらをかいた安易なコミュニケーションの典型例だ。「自分は親であるから、長く生きてるから、子どもより正しいし、子供の間違った面は、自分が直してやらねばならないという」エゴがある。いつの間にか相手を思いやる思考をさぼっている。

繰り返すが、良好な家族関係の原則は、良好な友人関係や仕事仲間の関係と原則と変わらない。相手のことを思いやり、どれだけ相手を気持ちよくできるかが大切なのだ。

したがって、家族だからこそ「この人と良好な関係性を築こう」という姿勢が必要なのだ。

その姿勢、きちんと人間関係を築く勇気を持つことがまず肝要である。そして、勇気を持って、日常的に、半ば強制的に、会話をし、人間関係を共に作り上げていく仕掛けを増やしていくのが重要である。そこで、提案したいのは「食事中にテレビを点けないこと」だ。

そもそも、人間関係を築く時間は食事の時くらいしかない

人間が相互に深い理解をしていくためには、ある程度会話をし続けなければならない。相手がどんな経験をしたか、考えたか、きちんと聞いて、共感的な言葉を示すことによって、初めて信頼なり、喜びなりを感じ取ることができる。

例えば、ものすごく面白い映画を見たので、そのことについて話したくなったとしよう。映画を紹介するまでに、何度か話のキャッチボールを繰り返す必要があるか。

「この間、インド映画みたんだよね」

「へぇ、インド映画かぁ、珍しいね」

「そうそう!なんか、巷で話題にあがってたんだよね~、普段そんなの見ないけど、やたら色んな所で聞くから、気になってさ」

「え!!そんな流行ってる映画あるの! しかもインドのやつでか。ちなみに、どんな映画なの?」

「バーフバリっていう王子が、悪の兄貴に復讐を果たすまでの道のりを、超絶スケールで描く物語でね...」

というように、最低3回はキャッチボールを繰り返す必要があることがわかる。これが、意外と家族では難しいことなのではないかと思う。全く必要は無いものの、純粋に相手に興味を持って、リアクションをし、話を促し続けるというのは、事務的な会話がその空気を支配する家族的関係では、なんとなく機会を見つけてやるというのは結構難関なのだ。そういうノリの会話を、旦那や奥さんや、アナタの両親や、子どもに対して、自然にできると、自信を持って言えるだろうか。

家に自分の部屋のようなものがあると、家族同士は家にいてもそもそも同じ空間にはいないから、そもそも話す機会がない。しかも、往々にして、自分が話したいことは、絶対に必要性があるわけではないから、わざわざ相手の作業を中止させて話に行くとか、なんだか恥ずかしい(くだらない会話こそが良好な人間関係の源泉なのだが)。やはり、とりとめも無いことを自然とそこそこ深掘りする空間というのは、食事という機会しか無いのである。

もちろん、事務的な会話は、会話本来の意義(共感や信頼構築)を代替しない。言うまでもないこともしれないが、

「トイレットペーパーどこにある?」

「廊下横のロッカー。」

とか

「ここの部屋、一体いつになったら片付けるの?」

「明日やるよ。」

といった事務的な会話では、何も心は動かない。これはただの情報の交換だ。

本質的に相手に興味を示して、質問をし、話を促す、そしてしっかりと聞く、そういった手順を踏まなければ、我々人間は滅多に仲良くなることのできるものではない。
そもそも、事務的な話は相手を楽しませるために始まるわけでもないから、事務的情報の交換で終わり、その後広がる余地がない。我々は、ある程度時間をかけてちゃんと相手と向き合い会話しなければならない。

お互いが顔を合わせて話す機会は食事の時しかない

食事以外の会話のシーンとしては、車で送り迎える最中とか、買い物などが上げられると思う。ただ、相互理解を深める上でこれらのシーンは物足りないと思う。「相手の顔をじっくり見られない」からだ。

相手と顔を突き合わせて会話すれば、相手の反応を確認せざるを得なくなる。あまりに、相手の反応がよくなければ、そういったことは家族間であれば表情に出やすいから、どれだけ無頓着で合っても、自分の会話への評価に向き合わざるを得なくなる。走行中の風景や家事についての話題に逃げず、相手に焦点を当て、会話をするための環境としては、やはり食事の時間がベストだろう。

例外的に、食事以外の場でうまく行っているケースもあるかもしれない。趣味が合うとか、人間関係構築への意識が高い家族であれば、定例的に一緒に外にでて、バーベキューをするとか、スポーツをするとかして、趣味の時間で顔を合わせて付き合う時間を作っているのかもしれない。

ただ、そのような意識の高い家族は心配ない。私が心配するのは、もっと標準的な家族だ。家族間で趣味はバラバラ。会話の中心は事務的なもの。家族間の仲はまぁ普通かそれ以下。そういった家庭にこそ、食事中はテレビを付けず、相手に向き合う勇気が必要なのだと思う。標準的に日本家庭がよくない習慣を採用しているからこそ、危惧すべき事態なのである。

テレビが点いていると会話がドンドン下手になる

テレビが怖いのは、自分の会話が上手くいっているか察知する感覚をマヒさせてしまうことだ。テレビというのは、流しているだけで、明るいBGM、やたらテンションが高い人の会話が流れてくるものだから、その場はなんとか持ってしまう。実際のその場は、まともな会話ー相手への理解を深めようとする質問や、リアクションが出来ていないレベルなのに、自覚できない。意識せずに、テレビの表面上の賑やかさ頼って、その場をやりすごしてしまう。

もし、会話がうまくいっていない時、テレビが無ければ、会話のキャッチボールが上手くいかなかったことに気づくかもしれない。表面的な質問と会話に終始した瞬間に『あれ?んー、なんか会話が、続かない...。』『なんか○○、今日はテンション低かったかも?』と、現状の問題を認識することが出来る。その空間にテレビはなく、明確な情報を発しているのは相手しかいないからだ。目に入って脳が認識する情報は、相手の表情と声が中心になるわけだ。そうすれば、客観的に自分の会話の仕方をふりかえり、例えば「あー、自分の話してばっかだったかも」とか「○○、何か話したいことがあったのかもしれないなぁ」と次のよりよい会話に繋げることができる。

しかし、明らかなテイタラクな会話をしたとしても、テレビがあれば、会話がないときは自分の関心をテレビに移し、相手に注目しないで済む。テレビがあれば、食事中も、終わった後も相手に注目しなくてもよいから、自分のつまらない会話っぷりに気づかない。相手が心の中で「...そんなくだらない質問ばかり?もっと私に(俺に)ついて質問してくれないの?」と感じて、その表情を暗くしていても、バラエティ番組のVTRを見るのに必死で、気づかないのだ。関心はテレビに向いているからだ。テレビがあると、相手の顔を見る時間も少なくなる。相手の顔を見ていれば、会話がうまくいっているか測ることができるのに、そこから逃げることを可能してしまう。

そして、テレビを軸にした会話は思考を短縮させ、短絡的な話しかできない人にしていく危険もあると思う。

本来、建設的で心地よい会話は「相手が何を話したいのかをよく考え、観察し、色んな質問、話題をふっていくこと」から始まると思う。論理的なアタマと相手を思いやるココロの両方を使う、人間の高尚な営みだ。このような会話を繰り返してこそ、人は「あぁ、分かってくれたなぁ」という、会話のゴールテープを切りに行ける。

しかし、テレビが点いていると、会話における短絡的な振る舞いが助長される。
テレビがあると、目の前に人には興味を示さず「あぁ~あの芸能人って浮気してたんだぁ」とか「wwww 〇〇ほんま面白い」とかいって、あったことの無い人物について、単発的な言葉を述べるだけの行いが正当化される。このようなアウトプットは非常に直情的なもので済む。これが習慣化すると、まずい会話の仕方が染み付くきっかけになるのではないか。この際、「目の前の相手はどんなことを話したいんだろう」というように、相手の立場にたって考える必要はない。テレビのシーンについて、ツッコミをいれればOK。深く考えなくてもいいし、思いついたことをポンポンというだけで良い。このような行為は、相手の関心に寄せてものを考える力を奪うものだ。テレビが点いていれば、「自分が思ったことを口にするだけ」で場が持つ。


これがもっと悪い方向に加速すると、「○○はアホやなぁ。ちっともわかってないね!」とか「浮気をするなんてなんて酷い人やろう。最悪。」というような、勝手に他者をラベリングをするような思考や発言が増えてくる。行動は起こさないけど、批評は達者の人材が出来上がってしまう。

蛇足だが、テレビ製作者は最近、クレーマーの発言によって、どんどん肩身が狭くなっているという。私に言わせれば、至極当然といったところである。テレビの一方的なコミュニケーションの仕方では、意識して抵抗していないと、どんどん人を批判的な人材に育てていくと思う。とどのつまり、テレビを好きな人がクレーマーになるし、クレーマーのような一方通行型コミュニケーションの人ほど、テレビが好きになるのだ。

テレビが視聴者に促すコミュニケーションには、そういった危うい側面が潜んでいると思う。テレビはあくまで離れた存在でしかないから、テレビを軸に会話しようとすることは、人間的に怠惰なコミュニケーションの仕方(相手を理解しょうとしない)を助長していく可能性があると考える。

そして、テレビを軸にした会話はつまらない。

目の前に人がいるのに、其の人に関心を示さず、赤の他人の芸能人について「Daigoは、お金持ちなんやなぁ」とか述べるのを、聞いたって面白くないだろう。そういうのは会話ではなく、喋っているだけだといいたい。

人間というのは、「話題と関心の中心が自分に向いてほしい」と強く願っている。自分に焦点を当てられ、話を聞いてもらえることに、大きな幸せを覚えると思う。だが、テレビがついていれば、会話の中心にいるのはテレビの出演者であって、会話の当事者たちではなくなってしまう。そんな人達について、断片的な情報だけで憶測を話して、何が面白いのか、個人的にはよく分からない。

終わりにーそもそも、そんなにテレビを見ることって大事か?

食事中にテレビを見ることは、目の前の相手に興味を示して、会話によって相互の理解を深め、共感しあうことよりも、大事なのだろうか。私はそうではないと考える。私達の人生はテレビの中にあるわけではない。うがった言い方をすれば、あまりにも、テレビがあることが当たり前だという宣伝広告に、我々の文化は犯されすぎていると思う。

特に、ゴールデンタイムに放映しているような内容はどれも一般化しすぎて、個人個人の人生の軸にはならないような、あたりさわりの内容ばかり。大きな発見を得ることも無い。

まずは、目の前の人に関心を示してみないか。

人は、皆孤独が嫌な生き物だ。誰もが自分の話を聞いてほしいと思っているし、共感を示してほしいと思っている。だから、話を聞いてもらえることにまさる喜びは、そうそう無いだろう。

そういった、当たり前の幸せを、家族というコミュニティで当たり前に充足させられている社会になれば、もっと、なんというか、心の豊かさが底上げさせられると思う。食事というのは、そういった、人と人がつながる喜びを覚える貴重なチャンスである。多くの家庭で、ご飯の最中に、互いに関心を寄せ合って話をする社会になれば、数%は心が豊かになるのではないかと思う。

直接会ったこともない人達が、どっか旅をしていたり、クイズに答えてたり、罵りあってたりする様子を見ているよりは、
目の前の人間に話を聞き、そして目の前の人間に話をする、そういった当たり前の事実が、我々の社会の幸せを形作るはずだ。